41話)
榛(しん)を生んだ茉莉は、誇らしい気持ちで、河田邸を闊歩していた。
今や、河田の召使のすべてが、茉莉に頭を下げた。
立派な跡継ぎを生んだ茉莉は、名実ともに河田家の女帝となったからだ。
ついさっきも、用もないのに孫の顔を見にきた舅(しゅうと)の和臣の応対をしてきた所だ。
子供を生んだ今の時期の茉莉には、家の中を采配する仕事を免除されていた。
だから、暇な時間をこうやって散歩ついでに、屋敷内を歩くのである。
河田家の階段は、中央をえんじ色のビロードらしき布が敷き詰められ、一段一段には、棒状の黄金の留め具がつく美しいものだ。
滑らかな曲線を描く手すりを撫でながら、ゆったりと階段を降りてゆく。
階段の踊り場に開けられた窓には、ステンドグラスがはめ込まれていた。
屋敷内のステンドグラスは、ユリの柄が多いように思うのも、大正時代にその柄が流行っていたらしいとの事。
「・・・この屋敷は、歩から見ると、曽祖父にあたる『河田亮吉』という人が建てたものなのだよ。
大理石で財をなした人で、今では代々の河田家の子息が住む屋敷といった感じになっているね。
この壁の大理石も純国産の大理石なんだ。
初めて国産の大理石で、暖炉や、床や柱を建てる考案をだし、成功したんで、この家にはたくさんの大理石が使われているんだ。
暇な時は、大理石の違いを見てくればいい・・・。」
和臣は、来るたびに河田家の由来や、歴史を、少しずつ小出しにして、茉莉にも分かりやすく説明しては帰ってゆく。
この話も、榛(しん)を見にきたついでに言ってくれた話だった。
階段を降りると白漆喰の壁の下半分には模様の細かく、色目の濃い大理石がはめ込まれて続く。
和臣が言った国産の大理石が“これ”なのだろう。
高野家にも古い歴史があったが、河田家にもあった。
そういった人達の努力の後に、自分たちの生活があるのだ。
(古い家を見ると、特にそんな事を思うわ。
いつもは、毎日の生活に追われて、これっぽちも思わないんだけれど・・。)
今日は特に気分がよくて、余裕があるのだ。茉莉は、一人で心の中でつぶやいて一階に降りる。
一階は、応接間、食堂、居間に分かれていた。
廊下を真ん中にして、左右に部屋が配置されている人気のないそこは、すべての扉が開かれている。
玄関から見て、手前の部屋は応接間。
ふわーと燻されたような何かの薫りが、部屋に入る人の鼻をくすぐった。
全体的に色がすすけていた。ズッシリと重い色合いのカーテンと、壁紙。当時のままを保っている家具たちの影響のはずだった。
応接間には暖炉がデンと鎮座ましましている。
”ねっとり”と言う表現がぴったりの緑青色の石地に、細かな模様が混じる。
(これもそうね・・・。)
しみじみ見てしまう。
西洋建築にはあまり見られない。さすがに珍しい石だ。
暖炉の上には風景絵が掛けてある。紋章ののような模様の羅列で編まれた、緑と赤の色のタペストリーも、壁にかけられていた。
部屋の真ん中には、テーブルとイス。
木目も深い、色合いのハイテーブル。
河田邸は、大正期の息吹そのままを凍結させて、今に至っていた。あちらこちらを彩る装飾の数々には、アールヌーブォーの様式を宿しているのだ。
一瞬、映画の一シーンを見ているかのように、アールデコ調の衣装をまっとった淑女や蝶ネクタイとスーツの紳士が、談話する様が思い浮かぶ。
けれども、一瞬でそのイメージは消えた。
ハッとなってため息をつき、上を見上げると、天井は”和”の体裁が取り入れられている。
独特の格子状に組み合わされた木造の天井は、昼の光はほとんど届かかず暗い。
まるで、違う時代にタイムトリップしたかのよう。
ひとしきり物思いにひたって部屋を出て、隣の食堂をチラリと見る。
食堂の壁は、磨きこまれた木目が引き立っている。その食堂の隣りが居間だった。
応接間と、食堂の重厚さを取り払われた、軽やかな部屋。
白漆喰の壁に、繊細な模様が浮き出している。
背の低いソファに、純白のカバーが掛けられ、結婚前はここによく座ったものだった。
居間からは、サンルームに出れる。
サンルームの床は、白大理石。
三つの部屋分の幅がある。横広がりのそこは、日の光を浴びて、白く輝いていた。
サンルームから覗く昼の庭は、生命の息吹にあふれた緑と、たくさんの花が咲き乱れていて極彩色の色が入り混じる庭が一望できる。
家族用に用意された庭を、手入れする河田の者はいない。
今は庭師にまかせっきりになっているおかげで、花を咲くが、歩が世話していた程、花が咲き乱れているように思えないのは、何故だろう。
(河田家の庭師は、木を見る専門・・だから?)
思って、サンルームを後にする。
廊下の左側は、男女別のトイレ。小さな窓のない扉。その横の扉は開いていて、かすかだがいい匂いが漂ってくる。壁一面には、ギャラリーのように、何枚かの絵画が掛けられている。
壁の向こうは厨房だった。
絵画の置かれた小さなスペースにはビリアードの台が、寂しげに佇んでいた。
ビリアードは歩より、武雄が得意だったように思う。
一度二人で対戦して、うまく出来ない歩が拗ねた顔をしていた瞬間を思い出して、クスクス笑ってしまった。
ビリアードの台が置かれた小さな部屋がどんつきだ。非常階段の蛍光灯が寂しく光っていて、茉莉は回れ右をした。
元来た道を戻って玄関ホールの前まで来ると、そこは広い。
両開きのドアの半分は開いたままになっていた。
緑の多い景色が、切り取られたかのように見えた。
茉莉はまた階段を登ってゆくのだった。
二階は自分達のスペースだ。
夫婦の寝室と、今は生まれたばかりの榛も同じ部屋で眠る。
ベビーベットの上で過ごしているが、いずれ子供部屋に移動するだろう。
階段を登っていると、さすがに少し股に引き攣れた痛みが走る。
榛を生んだ時に、出口が裂けてしまったので、縫ってもらっているからだ。
痛むのだから、ジッと横になっていればいいのに、動き回ってしまう自分は、やはり貧乏性なのかもしれなかった。
茉莉は夫婦の部屋に入って、すやすや眠る嬰児の姿を覗きこむ。
白い産着を着せられた赤ちゃんは、何から何まで小さかった。
けれども、髪の毛も生えているし、爪だって伸びている。茉莉の乳首を必死に吸いつく仕草は、“生”への躍動感に満ち溢れていて、茉莉を安心させてくれた。
ただ、気掛かりな事が一つ。
榛は生まれたばかりですでに、茉莉と瓜二つ?と思うくらいによく似た特徴を宿していたのだ。
(同じ似るなら、歩さんに似てくれればよかったのに・・)
思うくらいだった。
歩は茉莉に似た自分の子供を、大喜びで抱いてくれるが、似ている。と言われる程、茉莉を不安にさせる。
この子の行く末が、不安になった。
茉莉に似ていると言う事は、高野の血を受け継いでいない。と言う事につながるのだから。
雑種の血を感じさせないほどに、誰にもうしろ指差されないくらい、彼には最高の教育をほどこそう。
茉莉は決意する。
優しい仕草で、茉莉は榛の頭を撫でていると、榛は身動ぎした。
慌てて彼から離れる。
祖父の相手をした彼は、疲れたのか、さっきまでグズッていたからだ。授乳もすませて、やっと眠った子供を、わざわざ起こすとまた寝かすのに大変だからだった。
三階に上がると以前は、舅、姑が住んでいたスペース。
今は歩の書斎があるのみだ。
茉莉は迷わず三階に上がってゆく。
今日は歩は朝から社に向かわずに、家で書類作成に追われているのだ。
彼の書斎のある部屋の扉をノックしてから開けて入ってゆく。
歩はいた。
無心に書き物をしていたようだ。ちょこっと顔をあげて茉莉の姿を確認すると、柔らかな笑みを浮かべた。